大手チェーン店をなるべく使いたくない理由 - ジャカルタ路地裏の雑貨屋で思ったこと
会社から自宅への帰り道にあるキオス(雑貨屋)で、毎日のようにコーラかポカリスエットを買う。飲み物だけだと少し寂しいので、安く買えるように小分けにされたオレオ(三枚入っていて1000ルピア約9円)なども合わせて買う。
少し早い時間だと、まだおばちゃんというには少し早いチャーミングな女性と、笑顔が素敵な、笑うと緑色の歯の矯正器具が見える女の子がいつも店頭にいる。少し遅いとその旦那が店番をしている。「日本人は働き過ぎだよ」とか、酒を飲んだ後寄ると「飲み過ぎたらいかんよ」とか一言かけてくれる。コーラもポカリスエットも別に毎日飲みたい訳ではないので、部屋に少しづつ貯まっていっている。もっと品揃えの良いサークルKが近くにあるけれど、なぜか何となくその店に寄り、少し話して帰るのが習慣になっている。旦那が店番の時は、顔には出さないようにするけど少しがっかりする。
僕は大型チェーンの飲食店をなるべく使わない。
色んな理由があるけれど、第一にどこも同じだとおもしろくない。同じだから安心という考え方もあると思うけど、店によって全然違うおっちゃんやおばちゃんの味のある料理を食べたいし、どちらかというと料理と同じくらいこの人たちとのコミュニケーションも楽しみにしている節もある。意外な名店を路地裏でみつける楽しみもあるし、外したくない時でも賑わっている店に入ればその心配はほとんどない。
たまにふらっとぶらついた先で素敵なお店をみつけると、自分だけが知っている宝物を見つけたようでとても嬉しくなる。古着屋で見つけた好きなデザインの服を着てみると、サイズがぴったりだった時のような何とも言えない高揚感に似ている。少し話がそれたかな。
もう一つ、自分の使ったお金がどう回るのかと考えたときに、大規模チェーンで使ったお金がどう回るのかと考えると、想像が及ぶ範疇を超える。どちらかといえば、大規模チェーンの偉い人たちにお金がいくよりも、身近な好きな人の生活の足しになってくれるほうが嬉しい。複雑に商業化された資本主義社会では、「何にお金を使うか」という選択が、個人に残された数少ない自由だ。
例えば極端な話、ワタミで飲み食いをして渡邊美樹氏にお金が行くよりも、近所の行きつけの飲み屋のおっちゃんやおばちゃんの生活の糧になったほうが嬉しい。スターバックスにお金を使ってガザ地区の爆撃にお金が流れるよりも、地元の落ち着ける喫茶店の存続に少しでも貢献したい。
さらに、もう少しスケールの大きな話をすると、大規模チェーン飲食店の多くは外資の会社であったり、本部が首都にある会社なので、お金がどんどん地域から流出してしまう。これは回り回って自分たちの首をも絞めることになる。
大学のときに受けた落語の講義でこんな話があった。「落語家には、稼いだ金は稼いだ町で使う、というしきたりがある」。他所の町で寄席をやった際には、あがりをその町のそば屋や茶屋使う。町で回っているお金の循環に参加するためだ。回り回ってまた寄席を見てもらうために。
これはかなり理に適っていると思う。自分の住んでいる町が好きなら、寂れてほしくないのなら、なるべく地域でお金を回したい。どちらかといえば外資よりも日本企業にお金を使いたい。
あのスターバックスですらヨーロッパでは苦戦しているという話を聞いたことがある。完全な想像だけど、個々の個性を重んじる文化では画一的なサービスは受け入れられにくいのだろう。ヨーロッパの、画一的なサービスを受け入れない文化もある意味では自衛のためであり、合理的なのかもしれない。
毎日こんなスケールの大きなことを考えている訳ではないけれど、自分がお世話になっている地域でお金が回った方がいいと思うし、コンビニ経営もしている全然知らない財閥の偉いひとたちにお金が回るよりも、近所の笑顔の素敵なあの子の生活費の足しになってくれた方が嬉しい。いや、何よりも帰り道に少しほっとするため、あくまで自分のために、これからもたぶんこのキオスに毎晩足を運ぶ。
ここから完全な蛇足。スターバックスだけでなくコカコーラもシオニスト企業だけど、コーラは小さい頃から飲んでて、今更やめられなくなってしまった。小さい頃に口にする食べ物と飲み物は影響が大きい。うちの母は一般的な水準に比べると、かなり気をつけていたように思うのにこの状態。子どもを育てる機会があったらぜひとも気をつけたい。