音楽の本来あるべき姿
ギターにベース、キーボード、どの楽器も華麗に引きこなすソロモン諸島出身のジェフリーは、ぼくの音楽の師匠の一人だ。様々な国の若者が同じ船で旅をし、学ぶという内閣府主催の国際交流事業、世界青年の船(ピースボートとは違うのであしからず)で乗り合わせ、技術的なことはもちろん、何より音楽の本来あるべき姿を教えられた。
船に乗っている一月半の間、音楽を演奏する機会は本当に多かった。夕食時にサプライズで誕生日をお祝いする音楽隊を結成したり、様々な楽器を持ち寄って企画するライブや、ダンスや劇が好きな連中の企画したミュージカルに参加するなど、まだまだあるが数えきれない。廊下でギターを弾いていると、わらわらと色んな人が集まってきて、簡単な演奏会になることもしばしば。みんなで声を合わせて歌うと本当に楽しい。音楽は世界で最もメジャーな言語の一つだと再確認した。
ぼくはジェフリーをライブに一緒に出ようと何度も誘ったが、その度に笑って断られた。「ぼくは本当に大切な人の前でしかプレイしない」と最初に断られたときの衝撃は今でも鮮明に憶えている。ある日マライアキャリーの曲を歌うことになり、コードのアレンジをお願いした時のことだった。アレンジだけでなく一緒に演奏してもらおうと誘い、断られたのだ。最初は理由がわからず、何度も話すうちに少しずつ彼の発言の背景が見えてきた。
彼の音楽のルーツは教会での賛美歌。小さい頃から毎週日曜日に教会に通い、賛美歌に触れるうちに音楽にのめり込んでいった。歌に合わせてピアノを弾くうちに憶え、またインターネットでいろいろな音楽を見たり聞いたりようになり、ギターやベースも弾けるようになったという。キーボードもギターもベースも持っていないので、手を動かしながらイメージトレーニングをして、たまに教会や楽器屋で触らせてもらいながら憶えたというから驚愕。楽譜で憶えた訳ではないので、インプロヴィゼーションも自由自在。それでもライブをやって客をロックアウトすることには何の興味も無いらしい。家族や友人の誕生日会や教会でのプレイ、もしくは一人でひっそりと奏でるだけ。それが彼のにとっての音楽なのだ。
例えば音楽を生業にしたいと望む人が掃いて捨てるほどいる中で、そのうちのどれくらいの人が、家族や友人のためだけに心を込めてプレイしたことがあるだろうか。
日本のポップスやアメリカ•イギリスのロックなど商業主義の音楽を身近に感じながら育ってきたぼくは、音楽のほんの一部である「ステージ上のプレイヤーとステージの下にいる観衆という構図」をあまりにも自然に、当然のものとして受け入れていたのかもしれない。
クラブに行こうと友人に誘われたときに「踊れないから」と断る人が少なくないそうだ。ぼくもその一人で、気持ちはわかるのだが、そもそも「正しい踊り方」なんか存在しないはずで、これも「ステージ上のプレイヤーとステージの下にいる観衆という構図」を無意識に受け入れてしまっている例で、、、と話を広げると際限がなくなりそうなので話を戻す。
船に一緒に乗っていた一月半のうち、最後の二週間は、毎日のように廊下で座り込みながらギターを教えてもらえるようになった。少ない口数で丁寧に教えてくれる。ある夜、お互いの音楽のルーツについて話し合っていると、「この曲知ってる?」とぼくに聞きながらおもむろにギターを弾き始めた。ボブ•マーリーの『One Love』だった。大切な人の前でしかプレイしないという言葉は照れ隠しだったのか、それとも僕が彼にとっての本当に対切な人になったのか。
心から、大切な人のためのプレイ。本当に力のある魅力的な音楽の力の源泉はそんなところにあるのじゃないかな、と考えさせられた。