ジャカルタのふろしき。

新卒でインドネシアはジャカルタに流れ着いて2年。日々生活で感じたこと、海外から日本を見て 思ったことなどを綴るブログ。最近JKT48にハマったため、関連の話題多めでお送りしてます。

冬の東京で野宿した話。

メモを参考に、過去の経験を振り返る。
今回は冬の東京で野宿した話。 

大学5年生のときのこと。年末年始大晦日から4日間、新宿中央公園で、路上生活者支援団体らによる越年行動に参加した。路上生活で最もつらい時期を乗り切るための活動。様々な援団体の連合で開催され、炊き出しの他に医療相談などを受けるブースも設置される。
夜は広場にブルーシートを何枚も敷いて皆で集まって寝る。ぼくにとって野宿は初めての体験だった。

集まった人数はうろ覚えだけど200人くらいいたと思う。普段の炊き出しの他に、夜11時頃から年越しそばの配給を始めた。ぼそぼそのそばにお世辞にもおいしいとはいえないものだったが、みんな喜んで食べていた。年を越すということを実感できる、いわゆる文化的な活動として重要なんだろうな。

31日は炊き出しや寝床の準備などで夜通し起きていたため、1日の夜が初の野外就寝となった。夜の10時頃、炊き出しやボランティアスタッフとして出会った仲間と語ることに疲れ、シートの上に横になった。ビニール一枚を隔てたアスファルトが体温を際限なく奪っていく。ものの10分もしないうちに体を起こした。山岳用のダウンジャケットとカシミヤのセーターに、下半身はタイツと厚手のジーンズを着込んでいたがまったくだめ。焼け石に水ならぬ野宿にダウンジャケットだった。

ベンチには手すりがついており、横になっていることすらできない。しかたなくベンチにうずくまっていた。手すりは公園で就寝する人を追い出すためにつけられたという話を聞いたことがある。なぜその予算がもっと建設的に使われないのか。

風が吹くたびに身を縮める。公園の時計をぼんやり見上げると、針が12時の文字をさしている。手足の感覚が全くなかった。腕時計に目をやるたびに絶望する。何度見ても、最後に見たときから5分も経っていない。何分間時計を見ないでいられるか何度も試したが、最高記録は17分だった。一分が永遠のように感じられた。

3時頃、寒さを紛らわすため煙草を吸っていると一人の男性が話しかけてきた。いろいろと身の上話をした中で、印象的な言葉があった。「4日までは寝床を探さずに済んでありがたい」という。一人で寝ているとまれに襲撃されることもあり、常に何かにおびえている必要があるのだ。しかしビニール数枚敷いただけの環境を、ありがたいと言わせてしまうのってひどい社会だ。

僕の場合、なんとか凍える思いを耐えることができたが、それは家に帰ればあったかい風呂に入ることができるからだった。「もう少しだけ我慢すれば、家に帰って熱い風呂にはいるんだ」という思いで何とか乗り切れただけ。そのような希望もないまま、ずっと野宿し続けるのってどんな気持ちなんだろうか。想像ができない。

この経験を機に少し生存権について調べてみた。戦後の日本では、憲法25条に基づいて各種の社会保障制度がつくられてきた。しかし住居保障に関してはその理念も制度もないようだ。わずかに公営住宅があるも全体の約5%に過ぎない。東京都に至っては石原都政になってから一件も建てられていない。政策の上でも「いかに居住するか」ではなく「いかに持ち家を買わせるか」というように、住居は経済的な側面から論じられてきた。

生存権としての「居住の権利」をしっかりと認識されるべきだ。公営住宅や住宅手当などの保障を手厚くしなければならない。野宿ほど文化的な生活から遠い行為はないと、本当に短い間ながら野宿をしてみて思った。

魚を与えるのではなく、魚の取り方を教えるべき、という話。

過去の日記(日付は2010年)を読んでいて、ちょっとおもしろかったので書いてあったことを抜粋。てにをはを直したのが以下の文章。
意外と色々考えていたんだな〜、と少し嬉しくなった。


三鷹の市民センターで開催された佐野章二さんの講演会に参加したときの話。
魚を与えるのではなく、魚の取り方を教えるべきだ。そう考えてビッグイシュー日本版始めた、という佐野さんの言葉は印象的だった。

「飢えた人々に魚を与える」炊き出しや寄付などは大きな貢献だが、その場限りの対処となってしまう。佐野さんはホームレスを哀れみ救済の対象ではなく、ビジネスの対等なパートナーとして考え「どうやって魚を獲るかを教える」事業を始めたのだ。

ビッグイシューとはホームレスの実が販売できる雑誌で、一冊300円の内販売者に160円が入る仕組みだ。1日30から40冊売ることができれば、少しずつ貯金をして敷金をつくり、賃貸アパートを借りることができる。そして住所があるとハローワークに通って就職活動をできる。こうして5年間で80人程度が自立までこぎつけているという実績がある。

さて、一昨年実施された年越し派遣村ではその逆の「ただ魚を与えている」光景を見た。大規模な炊き出しを行う際、運営スタッフだけでなく派遣村の村民も一緒に食事の用意と片付けを行う方針だった。与えられるだけでなく、主体的に運営に取り組んでもらうためだ。しかしふたを開けてみると、どこからともなく表れた大勢のPTAのようなおばさんたちがてきぱきとすべての仕事をこなしてしまった。自前のゼッケンをつけて腕まくりをした張り切りようだった。

彼女たちは報道をみて自分にできることを考えてボランティアに参加したそうだ。その行動は立派で尊いものだ。しかし例えば簡単な料理を教えてもらうことのほうが、結果的には自立の助けになるかもしれないよな〜と思って眺めていた。

近年日本でもNPOの数が増え、ボランティアに参加する人も増えている。善意の行動から一歩踏み込んで、何が対象者のためになるのかを考えることができると、より活動が効果的になるかもしれない。