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ジャカルタのふろしき。

新卒でインドネシアはジャカルタに流れ着いて2年。日々生活で感じたこと、海外から日本を見て 思ったことなどを綴るブログ。最近JKT48にハマったため、関連の話題多めでお送りしてます。

学歴って何だ? - 日本は断じて学歴主義ではない

エッセイ 生き方 外から見た日本

日本は学歴主義だという話をよく聞くが、果たしてそうだろうか。僕は「日本は全く学歴主義ではない」と考えている。田村耕太郎氏が日経ビジネスオンラインの連載にて「日本の学歴主義はぬるい、東大なんか学歴とは言えない」という趣旨の主張をしていたが、これは的を射ていない。そもそも「学歴」という言葉の捉え方と、その比較方法が違うのだ。

日本に置ける学歴主義とは、偏差値の高低のみによる判断である。一方欧米に置ける学歴主義とは、どのような分野においてどのような能力を持っているのかという、細分化された各分野に置ける競争なのだ。田村氏の指摘のように、この各分野に置ける競争は日本の受験勉強とは比べ物にならないくらい厳しいものであることは事実であるのだと思う。

『欧米では大学院の専攻も実社会に密着したものが多い。アメリカを例に取ると、修士号の種類だけでも800以上あり、各分野のプロフェッショナルを育てるための細分化されたプログラムが、日本とは比べ物にならないほど豊富だ。』
『欧米の大学院、特に修士課程では職業に直結したプロフェッショナル教育を行っているところが多い。プロフェッショナル•スクールは、高度な専門知識を持ち、実社会で活躍するスペシャリストの養成機関として設けられているもので、ビジネススクールやロースクールなどはその典型である。(中略)これは、研究者や教師を育てることに主眼を置いたアカデミックな教育を重視する日本の大学院事情とは大きく異なる。』『最新版 国際公務員を目指す留学と就職』(グローバル•リンクマネージメント著、アルク)より引用。

つまり日本は学歴主義なのではなく、偏差値主義なのだ。専門分野ごとではなく、あらゆる人間を、偏差値という相対的な能力によって決まる格から判断するため、全く合理的でない判断を行ってしまう傾向がある。

学歴とは、過去にどのような教育を受け、また研究をしたのか。その際に所属した組織でどのくらいのレベルにいたのか。過去に身につけてきた専門性をどのような形で行使できるのか、というものであり、常に「今あなたはなにができるのか」を問うものであるはずだ。

田村氏の記事の趣旨は「日本の学歴主義におけるトップクラスの偏差値は、世界最高レベルの偏差値と比べるとまだ低い」というものであるため、これも日本的学歴主義の枠組み内に留まったものである。早稲田や東大はアイビーリーグに比べたらレベルが低いという話になるが、別分野の人や大学を比べることは無意味である。クリティカルではないと冒頭に書いたのは、このような理由だ。

田村氏は『世界に通用するブランド大学だけが「学歴」である。具体的には、ハーバード、エールなどのアイビーリーグにMIT、スタンフォードカルテックバークレー。米国以外ならオックスフォード、ケンブリッジくらいが「学歴」として認められる。』( 引用元: http://news.goo.ne.jp/article/nbonline/bizskills/nbonline-232259-01.html )と述べているが、「具体的には、ハーバード、エールなどのアイビーリーグにMIT、スタンフォードカルテックバークレー。米国以外ならオックスフォード、ケンブリッジくらいが「エリート」として認められる。」と言い換えた方が正しい。「エリート」と「学歴」は全く意味が違う言葉だ。

それに対し日本式の「社会的な格の偏差値主義」とは、主に大学入試の際に決定する出身大学の偏差値という相対的な能力や、それから派生する現在の地位それに付随する名声で計られるため、「何ができるか」が問われない。有名な大企業(大学)の人間なら優秀であるだろう、と判断されるように「何において優秀か」が問われない。きわめて曖昧な、偏差値主義による格で人物が判断される。20歳前後に決まってしまい未来永劫動くことのない指標であるため、以降自分の価値を高めていくことすらできない、何とも理不尽な指標となっている。多少年齢を経てから大学に通い直すことが少ない風土がさらに拍車をかけている。 

何らかの能力が秀でており、有名になっていくのであって、有名だから優秀というロジックは成り立たない。何の分野において、どのような実績によって有名か、というのが非常に重要である。ところがある分野での知名度や格の高さによって、全く別の分野に置けるパフォーマンスも期待されているという不可思議な現象が起頻発している。 
例えばテレビで、ある分野の専門家が全く別の分野の事象に関しても知識人として自信満々にコメントをする光景を良く見かける。正気の沙汰でない。(同業者から見れば素人に近い人が知識人扱いされていることもあるが、具体例については筋からずれるので割愛。)

また「日本人はプロダクトでなく人でベンチャーを判断する」という趣旨のブログ記事を見かけたことがあって、おもしろかったので引用する。これも似たような話で、有名な人が作ったものなんだからすごいに決まっているという破綻したロジックによる判断の典型例である。
『アメリカ「この『Facebook』ってサイトはCoolだね。誰が作ったんだ? ザッカバーグか。すごいな」日本「あのザッカバーグがプロダクトリリースしたぞ!! すごい! すごい! さすがザッカバーグ! で、何てプロダクトだっけ?」圧倒的なまでの人物本位。プロダクトは二の次。プロダクトを生み出すのが起業家なのに!!』(引用元: http://getnews.jp/archives/137830 )
 
これは政治の世界でも頻繁に起こっている出来事である。大臣の登用などはその典型。例えば財務大臣に財務の知識が無い人物が登用されるなどが慣例化していて、大臣が当該分野に明るいことは極めて稀。
他にも竹中平蔵氏が指摘しているように、日銀の意思決定者に全く別畑の人物が入ることがあるなど、きわめて非合理的である。
『オバマ大統領がFRBのポリシーボードに、マサチューセッツ工科大学の教授でノーベル賞も取ったピーター・ダイヤモンドを入れようとした。しかし 議会に拒否されたということがありましたが、理由は単純です。彼は確かにノーベル賞を取りましたけど、金融で取ったのではないからです。
中央銀行のポリシーボードというのはそれくらい専門性が要求されるのに、日銀はPh.D.(博士号)を持っている人が少ない。しかもどこかの会社の社長とかジャーナリストとかが、いきなりポリシーボードに入ったりする。そんな国はほかにありませんよ。』 (引用元: http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35178?page=7 )

その理由及び背景として、思い浮かんだことを列挙してみる。今後もう少し考えてまとめてみたい。
◆長い間、何らかの生産的スキルの教育機関は企業であったため(一部理系の課程を除く)、大学の学部に置ける専門性が求められていない。
◆学歴(種類)という絶対的な指標で人物を選ぶことが少ない。
◆情報公開度が低く、村社会の中で公開された説明責任のある選択がなされない。政治でも社内人事でも。
◆そもそも年功序列という能力以外の暗黙の指標がある。
◆ミクロな視点で考えると、人の移動が少なく村社会的な構造が維持され、共有されるコンテクスト量が極めて多いため、相対的評価と絶対的評価の乖離が小さかったのではないか。

いずれにせよ、誰かを評価するときに、18歳前後における記憶や論理的思考能力のみでなく「その人がどんな分野の、どんな能力の持ち主であるか」をある程度踏まえておきたい。
そして、「今自分はなにができるのか」を問い続け「自分のどのような能力を伸ばしていきたいか」を考えて学歴や職歴を作っていくこと。日本式の学歴主義に染まると、これができずに自分の人生に目標を持ちづらくなってしまうのだと思う。