ジャカルタのふろしき。

新卒でインドネシアはジャカルタに流れ着いて2年。日々生活で感じたこと、海外から日本を見て 思ったことなどを綴るブログ。最近JKT48にハマったため、関連の話題多めでお送りしてます。

日本で「学生起業」がもてはやされる理由

学生起業。

今日では、言葉上の起業であれば誰でも会社を作れるようになった。

新卒の就職率悪化にともない「就職できなければ起業すればいいじゃないか」という極端な話が聞かれるようになったり、大学生のときにはよく耳にした言葉だ。

親の扶養のもと自分のお小遣いだけ稼ぐ大学生にとって、地に足の着いた「働くということ」のイメージをもつことは難しい(ぼくもそうだった)。

彼らがキラキラした目で起業家の人々に話を聞いたり質問しても、「起業家」という地位が欲しかったのではなく、「解決したい世の中の問題があって、その方法が自分で起業することだった」だけだ、とか身も蓋もない答えが返ってきたりする。

上記のような学生が「学生起業」に憧れてしまう理由はわかるが、マスコミや報道機関ですら学生が起業したということで、事業の内容を過大評価してしまう場合がある。

それはなぜか。

大学生の年齢分布を見てみると、18歳や二十歳そこそこで入学する人が圧倒的に多い。

海外では、大学生の年齢分布は多様で、いい話的に消費される高齢にも関わらず大学に入学するパターンや、一度フルタイム勤務を経てから大学に通い始めるパターンなど様々。ようするに「学生=若者」といえる状況ではないのだ。

勘のいい人はもうお気づきかと思う。「学生なのに起業した」という言葉を使った場合、その学生は必ずしも若者ではない。

極端な話、堀江貴文氏がもう一度大学に入学して在学中に会社を作った場合、「学生なのに起業した」という状況になる。それってもてはやすべきことだろうか。たぶん違う。評価されるのは起業の内容であったり、彼のキャラクターが注目されるのであって、「学生なのに起業した」ことが評価される訳ではない。

もちろん、「若いのに成功してすごい」「若いのに大きなチャレンジをしてすごい」という価値観は日本以外でも共有できる。例えば二十歳の大学生が何らかの起業をした場合、「若いのにバイタリティがあってすごい」という評価は成り立つと。ただ、そこで勘違いしてはならないのは、「学生なのに起業した」ことが評価された訳ではないということ。

日本で「学生起業」がもてはやされる状況は、「学生」という言葉が「若者」とほぼ同義になっているためである。これは単一な社会構造を象徴する出来事といえる。

「学生」と「若者であること」を勝手に結びつけて話すのは、完全にある社会グループでの勝手な前提である。もちろん日本のことだけど。

こんな感じで、勝手に前提を作ってはその理解を他者に強要するという現象が、大小様々なグループ単位で行われている。上記のように国家単位で前提をつくっていることもあるので、気をつけないといけない。

異国にいるとそれが強く感じられることが多いので、気づいたときにはこうやって書き記していくことにする。

ちなみに、これは予防線を張ってる訳ではないけど、何にも考えずに大学生活を謳歌していたぼくとしては、若くして野望をもって粛々と努力してる人を、事業内容問わず尊敬してる。というか何らかの努力を継続できるすべての人を尊敬している。