ジャカルタのふろしき。

新卒でインドネシアはジャカルタに流れ着いて2年。日々生活で感じたこと、海外から日本を見て 思ったことなどを綴るブログ。最近JKT48にハマったため、関連の話題多めでお送りしてます。

ソースを聞かれた際に「ネットで見た」と答えることの意味

1799年当時、フランスはイギリスに比べて圧倒的にアカデミックで文化的な国だったのではないか。
大英博物館ロゼッタストーンが展示されているが、史実ではナポレオンがエジプトで見つけたものとされている。ではなぜイギリスの大英博物館に飾ってあるのかというと、イギリス軍はロゼッタストーン本体を持ち帰り、フランス軍は拓本という文字情報を取って持ち帰ったということではないか。つまりイギリスが持ち帰ったのはメディアであり、フランスが持ち帰ったのはコンテンツだった。この差はとても大きく、フランスの方が明らかにアカデミックで文化的な国だった。

上記は『森博嗣の道具箱 The Spirits of Tools』森博嗣著(中公文庫)の、「ナポレオンは、何故持ち帰らなかったのか」という章の一部の要約だ。彼は歴史の専門家ではないので(彼は「僕は歴史がまるで駄目である」と前置きしている)史実がどうかはさておき、コンテンツとメディアの関係を考える上で非常に示唆に富んだエッセイとして頭に残っていた。

海外にいると日本語で触れられる情報が限られているため、インターネットへの接続時間がかなり増える。必然的にインターネットを使って情報をとることの是非ついて考える機会が増えた。
インターネットに接続する人口が増え、ますます情報の取捨選択が重要になってきた昨今。ネットがあるから新聞はいらない、テレビは見ない、本など必要ないと言う人も多い。インターネットだけで情報を過不足無く得ることができる人は勿論数多く存在するのだろうが、極めて限られていると言わざるを得ない。多くの人、特にすこし込み入った雑談や討論などにおいて、情報源を尋ねられた際に「ネットで見た」と答えてしまう人はその限りでないと思う。その理由を、メディアとコンテンツの関係性と共に整理しつつ、インターネットでのみ情報を得ることの危険性を考えてみる。


日々ぼくたちが意識的•無意識的に情報の取捨選択を行う際に、その情報源が何かというのは重要な要素である。情報を得るために情報源としては様々なメディアが存在する。新聞、ラジオ、テレビ、インターネットなどがソースとなる場合が多いが、情報源、ソースを尋ねられた際に前述のいずれかを答えとするのは言葉足らずだ。
 
例えば「テレビで見た」と答えた場合、それはメディアをさしているのであり、コンテンツを示していない。どんな放送局のどんな番組(コンテンツ)で見たのかが信憑性を判断する上で重要になるため、この答えは適当ではない。
多くの記者が何年も取材をして作り上げたドキュメンタリー番組なのか、情報の真偽や整合性よりも娯楽性が優先されるバラエティー番組なのか判断がつかない。

さらに「ネットで見た」とだけ答える場合はかなりまずい。インターネット上には研究者が自分の研究をウェブサイトで発表している情報から、チラシの裏に書く価値もないつぶやきまで無限の可能性がある。「ネットで見た」と答えた場合、下手をすれば自分で書き込んだコメントをソースとして捉えることすらできるのだ。まさに「ソースは俺」状態。ネット上のどのようなウェブサイトやブログから情報を得たのかが全くわからない以上、これらの答えは情報源を尋ねた質問への答えとしては不十分である。
ネットはただのインフラの総称に過ぎない。乱暴な例えをすれば新聞で読んだ記事をソースとして答える際に「紙に書いてあった」と答えるのと同義かなと思う。

情報とはコンテンツである。メディアは手段だ。つまりソースを聞かれた際に「ネットで見た」と答える人は、メディアとコンテンツの関係を把握できずに混同している。コンテンツの種類を聞かれているのにメディアの種類を答えるという行為を行っているのだ。会話の相手が知りたいのは情報を手に入れた手段ではなく、情報の出所だ。文脈にもよるが、多くの場合、あなたがどのような手段で情報を得ているか知りたいのは業界のマーケティングかコンサル、研究者だけ。

メディアとコンテンツを分けて考えた際にも、メディアの種類によって包括する情報の信憑性の平均レベルは異なる。書籍、新聞、雑誌、テレビ、ラジオなどのマスメディアは運営に多額のコストがかかっており、いくつものフィルターを通したそれなりに質の担保されたコンテンツの量が多い。
 
結論から言うと、個人的にはメディアごとの信憑性の平均値で言えば新聞が圧倒的に高いと思う。「新聞で見た」場合、毎日何百人の記者が情報集めに奔走し、何十人の校閲がチェックをするコストがかかっている情報産業が発する情報の信憑性は相対的に最も高いと言えるだろう。(「新聞」に東スポを含めたとしても)
なので、2ちゃんの多くのスレに置いて新聞記事がソースになっているのは自然な現象だ。

テレビの場合も製作コストはかかっているが、情報の信憑性を挙げる方向に使われる訳ではないし、包括されるコンテンツの種類が多く、信憑性が全く求められないバラエティ等を含むため平均値が下がる。
 それでも「新聞で見た」と言うよりかはどの新聞のどのような記事で見たという点を合わせて答えるにこしたことはない。「ネットで見た」よりは比べるべくも無くましだけど。
 
話を戻すと、情報ソースを尋ねられた際に「ネットで見た」と答えた場合、「自分はメディアとコンテンツの区別がついていない人間で、情報の取捨選択が苦手です」と白状してしているのと同義である。
大学での討論など、情報のソースを尋ねた際に「ネットで見た」と言われていらっとするのには理由があったのだ。「自分はメディアとコンテンツの区別がついていない人間で、情報の取捨選択が苦手ですけど何か問題でも?」とドヤ顔で言われていらっとしない訳が無い。

完全に蛇足だけれど、虚構新聞騒動で騙されたと怒ってた人は「ネットで見た」って答える種類の人が多かったんじゃないかな。コンテンツとメディアの関係を把握していたら怒るポイントが無いような気がする。だからこそ、虚構新聞もっとやれっていう人も多かったんじゃないかとも。まあそこに優劣をつける気は全くないことは付け加えておく。

いずれにせよ、リテラシーが低いと思われたくない人は「ネットで見た」とだけ答えるべきではない、というのが今回の結論。ソースは?って毎回聞くと、完全にめんどくさい人認定されてしまうので、時と場合によって、ほどほどにするのが懸命かなと。ちなみにぼくは方々でかなりめんどくさい人認定されてます。