ジャカルタのふろしき。

新卒でインドネシアはジャカルタに流れ着いて2年。日々生活で感じたこと、海外から日本を見て 思ったことなどを綴るブログ。最近JKT48にハマったため、関連の話題多めでお送りしてます。

読書メモ 『貧困についてとことん考えてみた』 湯浅誠 茂木健一郎 NHK出版

対談であり、かつ新書なので、内容としてはそこまで深くはないけど盛りだくさんな感じ。

かつて片足の小指くらいだけ、労働運動に足を突っ込んだ身としては、湯浅誠のスタンスの変化が非常に印象的だった。
地道に、愚直に活動だけしていれば報われるはずだ。かつてはそんな意識が垣間見えるような姿勢だったが、「他分野の人に理解されるかどうか」を気にして茂木健一郎と接する姿が描写されていた。これが前進なのか後退なのかは分からないけれど、ただ、変わったなあと思った。


【概要】
北海道釧路市、大阪府豊中市、沖縄県の各パーソナルサポート事業を、湯浅•茂木両氏が視察、それについて対談するという流れ。上記3つの事業はそれぞれ特色があり、業界内でも先進的な取り組みばかり。特に沖縄の事例は非常に示唆的。

以下印象に残った言葉

★社会は損をしている
湯浅誠「ある時期から私は「社会は損をしている」と感じるようになった。(中略)日本社会は人口減少社会に入った。生産年齢人口はさらに急激に減少していく。ただでさえ「がんばれる」人の母数が減っていくのに、「がんばれる」条件を削る事でわざわざ分子を減らしている。みずから首を絞めていると言わざるを得ない。」

★高度経済成長モデルから脱却できていない
政府、銀行、大企業の三つの傘の保護下にあった人以外について、実は昔から日雇い労働者が多かった。不景気により三つの傘の保護範囲が小さくなり、さらに日雇いの仕事も減ったため被害が甚大になっているだけであり、もともと無理のある設計だったのではないか。こんなニュアンスのことが書いてあったと思う、手元に本が無いのでうろ覚えだけど、そのうち読み直したい。

★困っている人というのは、地域の宝物
「困っている人が抱えている課題に周りの人たちが対応する事で、結局、その地域自体の解決能力が上がっていく」「若くて健康な成人しか想定しないで町づくりをしたら後が大変になる(中略)結局、時間とお金をと手間隙がもっとかかりますよ、ということ」

★自己責任について
茂木健一郎「森の中に咲いている花が他の生物とのつながりのなかで花を咲かせているように、成功した時の成果は一人だけのものではないし、逆に失敗した時の責任も一人のものではない」


ポピュリズムについて
「(略)その共産党が、今は「脱原発、増税NO!」といったことをポスターに書いている。このメッセージ自体は、かなり多くの人の共感を呼ぶ者だと思いますが、でもそこからは、ある精緻な世界観やモデルからロジックを組み立てていった結果、このような結論になりました、というプロセスが全く感じられない」

そのうちもう一度読み直すリストに入れたので、再読してまとめ直す予定。

「継続的努力」の練習 - 1ヶ月毎日ブログ更新7日目

ぼくは意志が弱い。

精神的に負荷がかかると逃避にはしるくせがある。
自分の意思の弱さから、本当に自分を嫌いになったことが何度もある。

継続的な努力を続けられたことがない。

朝起きれないという軽いものから、人生のターニングポイントになるような大切な節目に向けて努力ができないとか、様々な局面で痛感してきた。

小学生から大学2年まで続けたバスケットボールでも、何度自主トレーニングの日課表を作ったかわからない。1週間以上続いたことはない。もちろん選手としても大成することなく、10年も続けた割には残念な実力の持ち主だ。

大学受験のとき。塾には通っていたものの、サボり倒していたし、結局本気で勉強し始めたのはセンター試験が始まる2週間前くらいだった。もちろん結果は散々で、20個近く受けた試験のうち通ったのはひとつ。完全にラッキーとしか思えない。

就職試験のとき。新聞社に入りたくて作文塾に通った。そのでの同窓生は平均一日にひとつ作文を書いていた。多い人は2つも3つも書いていた。ぼくは作文を書くというストレスに耐えられなくて、計2年以上通った中で、書いた作文は5本くらいだったと思う。あらゆる新聞社の試験を受けたが、当然受からなかった。

現在の会社で。新規で営業する際に、ここは落としたらでかいという会社向けに、営業先の資料をしっかり作るべきときも。なぜか作業が手につかず、先延ばしにしてアドリブで乗り切ることに。乗り切れるときとそうでないときがあり、効率は非常に悪い。

大学を卒業するまでは、ぎりぎりまで何もしないで乗り切ることに美学を感じていたのだけど、今思うと完全にただのアホだと思う。ただの怠慢だし、何よりハードルが低かっただけ。

今後自分の目標に向けて可能性を切り開いてゆく際に、「できる限りのことをする」という努力が必須になる。その時々の景気や周りの状況でたまたまうまくいく、という偶発生ではなく「毎日自分が積み上げていける何か」が必要である。

こんな当たり前のことに気づきながらも、今まで何もできなかった。

ということで、「継続的努力」の練習をするために、一ヶ月毎日ブログを更新することに決めた。
文章の生産力もあげたいので一石二鳥の課題。はじめてから今日が7日目。とりあえず一週間続いた。

このまま続けると、一ヶ月たつころにはちょうど丑の日が近い。職場の先輩と高級うな重をかけて、ブログを更新することになった。

ブログ一ヶ月毎日更新を続けられたとしても、それはあくまでブログの更新に慣れるということ。横断的に何に対しても努力が続けられるということにはつながらない。

その意味では「何らかの行動を習慣に組み込む」ことの成功体験をひとつ作りたいという試みである。

これでだめだったら自分に愛想つきるなあ。
丑の日の高級うな重の写真付きエントリをアップできるようにがんばる。

クラブ初心者の分際で、有名DJのイベントに行ってきた - Kevin Yost Live in Jakarta

2013年5月1日、メーデーの夜。
クラブ好きで自身もたまにDJをやる友人に誘われ、「Lucy in the sky」という店を訪れた。この店は一階がレストラン、二階がバーとなっており、二階のバーは敷地の半分ほどが屋外になっており、開放感のあるつくりになっている。一階のレストランには何回か来たことはあるが、二階に来たのは初めてで、DJのブースがあることを初めて知った。

当日はあいにくの雨模様のため、客はまばら。それでもそんなに広くないスペースに5、60人は集まっていた。お洒落な格好をしている人が多い。ファッション業界の人や、その友達が多かったんじゃないかな。4、5人としか話してないからわかんないけど。

適当にお酒をのんでいると、前座のDJがブースを離れ、短髪の白人がブースに入って用意をしはじめる。少しざわついた周りの反応から、彼がKevin Yostだとわかった。

クラブミュージックが好きな人にとっては有名らしいが、知らない方のために簡単な紹介。

90年代の半ばから制作活動を本格化させ、全世界で5万枚を売ったというヒット・アルバム"One Starry Night"を始めとして数多くの名作を世に送り出してきたアメリカ・ペンシルバニア在住のプロデューサー Kevin Yost。ニュージャージーのレーベル i! Records を主な拠点に、クールでジャジーな雰囲気につつまれた作品を次々と発表してきた彼は、DJとしても「ミックスする曲は全て自身の作品である」というポリシーを貫くなど、「サウンド・クリエイターとしてのDJ」という側面を誰よりも体現してきた存在。

引用元:Higher Frequency「Kevin Yost in TOKYO 23th APR 2005」
http://www.higher-frequency.com/j_interview/kevin_yost/index.htm

めっちゃ近い

ハコの小ささと雨のため来場者も少ないく、ブースがめっちゃ近い。こんな感じ。一番手前の青いシャツの後ろ姿がぼく。一番左がKevin。↓

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ジャカルタの後はバリ、その後は東京とツアー周りをした。東京では晴美埠頭の大バコで入場料1万円くらいのイベントに出たらしい。下の写真は東京のイベントの様子。
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それに引き換え、ぼくが参加したジャカルタのイベントは、小さい箱どころかバー開催。めっちゃ近い。入場も無料。これは価値が分かる人にとってはけっこうすごいことなんだろうな。初心者の分際ですいません。

ジャカルタのクラブシーンは「めちゃめちゃ有名なキャッチーな曲をとりあえず流しておく」的なハコが多く、こういう小さなイベントに来るような通っぽい人はまだまだ少ない模様。ただキャッチーなメロディーがながれるよりかは渋い雰囲気で、個人的にはいままでいったクラブイベントとの中で一番気持ちよかった。複雑なリズムが混ざったトラックに簡易キーボードみたいな装置を使ってメロディをのせていたと思う。途中からよっぱらってあんまり覚えてないけど。

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クレージーなフランス人と遭遇

適当に飲んでいると、友人のうち一人がこの場で仲良くなった白人を連れてきた。彼の手には透明な液体の入った4つのグラスが。もちろん水である訳がなく、おそらくカクテルでもない。ぼくと友人二人、さらにそのわりと小柄な白人で乾杯して飲み干した。なんらかのハードリカーだったと思う。飲み干してすぐ白人がふらっとどこかに行き、数分後に戻ってくると、その手にはまた4つのグラス。そんな感じで彼は何度も酒を奢ってくれて、どんどん飲ませてくる。なんで男に飲ませてんだよ。お前、マジでクレージーだな、みたいなことをいいながらどんどん飲んだ。酔いが回ってあんまり覚えてないけど、インドネシアに住んで長いフランス人だと行っていた気がする。

その後適当に踊ったり休んだりしていると、疲れも相まって本格的にふらふらしてきた。客が帰り始め、ひともまばらになったころ、めっちゃきれいな女の子がふらふらしている僕を受け止めて、ソフトドリンクをくれた。連れもいなさそうだし仲良くなろうかと思ったけど、足がふらついて完全にグロッキー。あきらめて椅子に座りこんだ。そんなこんなしているうちに撤収の時間に。友人に車で送ってもらって帰宅。今までクラブとか行ったことがそんなになかったので、誘ってもらって感謝。今後もおもしろいイベントがあれば参加したい。

写真は「chalie-seen」というウェブサイトから。あらゆるパーティやイベントに出没し写真を取りまくって勝手にアップしてるチャーリーという人のサイト。インドネシアならではのゆるさが存分に発揮されてる、肖像権とかうるさい日本だったら絶対アウトなサイト。でも、きょうびFacebookに勝手にアップされたりすることを考えれば、自分が写ってるか探したり、どんなイベントがあるのかを見て回るのも楽しいと思う。

はてなダイアリーからはてなブログへ引っ越し

引っ越した

掲題の通り、はてなブログに引っ越ししてみました。それに伴いタイトルも変更。仕事終わりで夜中に、気分転換の意味も込めてやったので、正直意味不明なタイトルにはなりましたが。

タイトルに関してはヘッダの説明がすべてです。説明は恥ずかしいのでしません。ヘッダのタイトル横の写真は、世界三大がっかりスポットの呼び声高い、ジョグジャカルタ、ボロブドゥール遺跡の朝日です。雨振ってたのに遺跡に着いたら雨がやんで、朝日も見れたラッキーがおこったときに撮った写真。ちょうど一年前くらいだったかな。

書きたいことはいくらでもあるのに、意思の弱さや疲れ、筆力不足なども相まって下書きとまりのエントリが多い現状。この引っ越しをきっかけに文章生産力を上げ、どんどんエントリをアップしてゆく所存です。たまに閲覧して頂ければ幸いです。何らかのフィードバックもらえればさらに嬉しいです。

はてなブログ使ってみて

はてなブログへの引っ越しに際して、いくつかのブログを参考にしたところ、はてなダイアリーで重宝していた「記事一覧」の機能がなくなったことを嘆くエントリが多かった。

気に入ったブログエントリが合った場合、記事一覧で片っ端からタブを開くという行動をよくやっていたので、それに関しては残念。一方で、はてなダイアリーでは使わない機能がけっこうあったので、それがごっそりなくなってすっきりしたと言えばそんな気もする。どの機能のことかと問われれば、うまく答えられない程度のライトユーザーではありますが。

個人的には、はてなダイアリーではうまく行かなかったヘッダ画像の設定が簡単なだけでも、ブログに移行してよかったと感じている。

広告業界人の視点でとある雑誌を読んだ

これはあくまで、ある雑誌を読んで思いめぐらせた個人的な妄想です。
いわゆる外資コンサルの新卒試験にあるようなフェルミ推定的な遊びです。
そのことをご承知頂けない方は戻るをクリックしてお引き取りください。

目次

  • 雑誌概要
  • 五万部も発行できる理由
  • 広告が入る理由

雑誌概要

「月刊アップルタウン」というアパホテルグループの発刊する雑誌がある。なぜか2013年3月号(No.265)と4月号(No.266)が事務所においてあったので、昼食をとりながらぱらぱらと読んで、先輩と色々話したことをメモ的に書いてみる。あくまで手元にある雑誌二冊から読み取った情報に基づく推測である。

内容としてはおおまかに3ジャンルの情報がまとまっている雑誌だ。
①旅行情報:日本各地にホテルを持つグループの発刊する雑誌であるため。
②サラリーマン向け情報:ビジネスホテルであるため出張者向けの情報。
③言論情報:オーナーの政治的見解にそぐうような論文の寄稿及び、オーナーと政治家や研究者の対談。ちなみに4月号の寄稿論文の題は「核兵器の開発も保有も一切公表しない法律を作れ」で、英語の翻訳版も掲載されている気合い入り様だ。なお③だけめっちゃ浮いている。お金があればこんなこともできるんだな。知る人ぞ知る極右言論雑誌でもある模様。

なぜか現在はホームページで公表していないが、雑誌寄稿者である藤誠志のブログで

「総発行部数38,000部となった本誌も今号で120号を迎えることとなった。」

とある。
(http://www.apa.co.jp/appletown/fujiseiji/fuji0103.html)

また、編集に毎月携わっている会社と自称する人物が運営するブログ(2005年時点のエントリ)によると、以下のようにある。

「月刊アップル・タウン」。あの帽子の社長で有名なホテルとマンションのアパグループが発行している企業広報誌だ。「企業広報誌」という割には発行部数が多く、約5万部。

(http://pine-link.blogzine.jp/company/2005/07/apple_town_8_a148.html)

2005年時点で公称5万部とあるので、その後の推移もあるだろうがとりあえず5万部とする。1部300円。
他の総合月刊誌を見てみると、5万部はなかなか難しい数字。数字は一般社団法人日本雑誌協会調べ2012年度版。
新潮45/新潮社/23,900
中央公論中央公論新社/31,000
Voice/PHP研究所/21,067
http://www.j-magazine.or.jp/magadata/index.php?module=list&action=list&cat1cd=1&cat3cd=1&period_cd=19

中央公論で3万なのに5万部は難しいっていうか、無理だろ、、、と一瞬思った。が、それは完全に早計だということに、しばらくページをめくった後で気づいた。実はこのグループの力を持ってすれば五万なんか余裕な数字。発行部数というのはコンテンツのクオリティだけで決まるわけではないのだ。さらにこの広告不況のご時世に広告も割と入っているが、これにも理由がある。ぼくがこの雑誌の広告営業を担当した場合、比較的用意に営業文句が思いつくということに思い至った。

今回は「5万部も発行できる理由」と「広告が比較的入りやすい理由」の二点について、先輩と二人で推測したことをまとめてみる。


5万も発行できる理由

雑誌(4月号)に載っている限りで、グループ全体のホテルが204あり、一番小さいホテルで部屋数が38部屋、多くの場合100〜200で、一番大きなホテルは1001部屋。平均を200として「200部屋×200ホテル=40000」と、自社各ホテルの部屋に入れるだけで4万部発行することができる。

あとは各ホテルの付き合いのある納入業者に各社10部ずつでも買わせれば、納入業者が仮に各ホテル平均5つあるとして「業者5社×10冊×200ホテル=10000冊」でこれだけで5万部発行達成。
仕事をまわしてもらえるなら「10冊×300円=3000円」くらいやすいものである。

業者としてぱっと浮かんだのは清掃、クリーニング、飯、送迎•レンタカー。ホテルの業態をあまり知らないので何とも言えないが、他にもたくさんあるんだろうな。

ホテル以外のグループにも買わせることは可能だと思うし、(それこそ自社社員も読んでないと出世できない的な空気があるのかもしれない)もちろん趣味で的購読している人もいくらかはいるだろう。、ホテルが増えれば増えるほど部数が増やせる。3月号だけでも10つのホテルが建設中と記載されてるので、そう考えると2005年時点の5万部より増えている可能性が濃厚だ。

広告が比較的入りやすい理由

自分がこの媒体の広告を売るとしたら、三つの特色を前面に押し出した営業をするだろう。全国200カ所以上のホテル各部屋においてあることで、メディアにとって重要な「目につきやすさ、リーチ」はまずまず。比較的安価なビジネスホテルというカテゴリーに属すため、「出張などが多くなる30以上のサラリーマンがメインターゲット」となる。さらに昨今の不況により比較的安価なビジネスホテルでも観光に使われやすいので、「飲食レジャー含む観光情報」も親和性が高い。

この予測を基に、3、4月号に入っている広告を見ていく。

入ってる広告(3、4月号)

各地域のホテル近くにある飲食店が広告掲載。ホテルの各部屋にこの雑誌をおくため、ホテルの近くにある飲食店に導線を強くできる。また「広告掲載した飲食店についてはホテルの従業員が積極的に勧める」とでもいえば比較的提案が通りやすくなるはず。

  • 不動産広告

自社グループ広告。

  • ホテル広告

自社広告。

  • 旅行代理店

ホテルを常時ストックしておかなければならない旅行代理店に対して、アパグループホテルの特別ディスカウント出すから広告出してほしい、みたいなアプローチができる。

  • クレジットカード

アパグループ全体でカードを使える等にする、もしくは優先的に使わせるから、広告出してほしい的なアプローチができる。

  • アメニティグッズ

製品を系列ホテルで使うから広告出してほしい的なアプローチが可能。
ホテルが200あるとして、ひとつのホテルに対して部屋が200だとする。占有率が平均5割だとして「100部屋×洗面用具×2人分×200=40000(セット)」が一日の洗面用具消費セットとなる。毎日確実に2万セットはけるのは、めちゃめちゃいいお客なんじゃないか。

  • 飲料

アパグループ各ホテルの部屋設置冷蔵庫にドリンク入れるから(以下略)という営業が可能。


と、こんな感じで、規模が大きければ関係者も多くなり、既存のネットワークの中だけでもビジネスが成立する典型例だ。グループ全体がどの程度の規模なのかは調べていないのでわからないけど、ここまででかいと帝国といっても差し支えないレベルなのでは。自治体一つふたつくらい作っちゃえそうな勢い。

ここからは記事についての話。

  • 記事(記事広告の可能性あり)

4月号の流行を紹介するコーナーで、スキンズという日本の営業権はデサントが持っている高機能スポーツウェアブランドが紹介されていた。運動不足を気にするビジネスマン向けの記事ともとれるし、三月号でデサントの記事が出ていたので、記事書いたので広告出したともとれる。
3月号でデサントが紹介されたコーナーで「家庭教師のトライ」などのトライグループが取材されており、5月号で広告が出るのかが気になるところ。

次にメインの特集で、3月号ではゴルフウェア特集、4月号では栄養ドリンク特集がなされていた。「出張などが多くなる30以上のサラリーマンがメインターゲット」向けの記事である。ドリンクに関しては、広告にもつながりやすいのでは。




以上、ちょっとした休み時間にあれこれ妄想したこと。
この部分の予測が甘いとかあれば是非教えて頂きたい。

インドネシアにおけるKポップの凄まじい人気 - ライブ参戦記

インドネシアではkポップが大人気で、卵が先か鶏が先かわからないけれどもサムスンの製品も絶好調。そんな中開催されたkポップのイベント、韓国公共放送局KBSの公開収録コンサート「ミュージック・バンク」に足を運んだ。

3月11日、場所はブンカルノ競技場のメインスタジアム。この競技場はジャカルタで一番大きな会場で、同スタジアムを使った外国人歌手は非常に少ない。スティングやマルーン5、ジェイソン・ムラーズも一段階小さい会場を使っている。近年では昨年9月、韓国の芸能事務所主催の「SMタウン・ライブ・ワールド・ツアー」に次いで2回目。
その前まで遡るとリンキンパークがこの会場をソールドアウトしている。つまり、この競技場をソールドアウトできるには相当なレベルの人気が必要で、kポップはそれを満たしている、と言えばすごさが伝わるだろうか。
もっとも、kポップのイベントは有名どころグループを何組も出演させるので、ひとグループごとの人気はその限りではない。今回のイベント出演は、男性アイドルグループのスーパージュニア、シャイニー、2PM、ビースト、インフィニット、ティーン・トップ、ソロのエル、女性アイドルグループのシスター。トップどころをそろえてきてるのはさすがだ。

30分遅れで会場入りし、スタジアムの三階まで階段を上った。階段を上っている途中、担架で若い女性が運ばれているのを目にした。周りの人に事情を尋ねると、興奮しすぎて倒れたらしい。すさまじい熱狂ぶりだ。
番号を確かめながら席を探そうとするが、客席入り口まで人がごった返していて入れない。125万ルピアのゴールド席チケットを買ったにもかかわらず、席がないどころかスタジアムの通路まで満員になっていて、入れない。
「2ジュタ(200万ルピア、約2万円)も払ったのになんで座れないのよ」と怒っている、ぼくと同じような状況の人も散見された。案内スタッフが全くおらず、無法地帯。仕方なく通路でごった返してる中に突入した。これがインドネシアクオリティ。今年の5月にブラーとエアロスミスのライブ参加予定なので、そのときには会場に早めに入ることを誓った。

じゃかるた新聞によると当日の来場者数は1万人とあったが、もっと多いんじゃないかな〜という印象だった。

さて肝心のライブ内容は、すごいの一言。ライブは観客と一緒につくるものだと再認識するような、凄まじい盛り上がりだった。特に、シャイニー、2PM、スーパージュニアと大トリに近づくにつれ盛り上がりが凄まじく、この三組の登場前はまさに会場一体のコールが巻き起こった。

個人的ハイライトはふたつ。
一つは、2pmのパフォーマンス。歌やダンスのクオリティはもちろん、ライブ慣れしているというか、楽しませ方が多彩だったように思う。例えば、衣装がかなり厚着なので、暑いんだろうな〜と思って見ていると、パフォーマンス後半には上着を脱いで、さらにシャツのボタンを開けだした。セクシーな姿にファンがさらに盛り上がる。
また、これは別のエントリで書く予定だけれど、mcの合間に会場のファンに向かって「今からポーズとるから写真とっていいよ」と呼びかけていたのに驚いた。冒頭の写真がそのシーン。会場の両サイドはじっこまで行くサービスっぷり。日本のショービジネスでは、ブロマイドや写真集およびライブdvdを売るために撮影は御法度。ところが今回のライブではその常識が崩されたので、すさまじいカルチャーショックを覚えた。

もう一つのハイライトは、人気テレビドラマシリーズの映像をモニターで流しながら、その主題歌を歌手が歌うというコーナー。人気シリーズの主題歌はやはり人気が高いのか、会場全体の大合唱が続いた。
途中、韓国版「花より団子」の映像とともに、主題歌を歌った歌手が登場し、会場が沸いた。「このドラマ、日本オリジナルなんだよ」と教えても見向きもされないだろうな、と少し寂しく思った。コンテンツ産業はクオリティだけではなく、広め方が重要だよな、と改めて感じた。

このライブのみでkポップをわかった気になる気は毛頭ないが、全体的な印象として、いくつかの特徴があったように思う。
打ち込みのダンスミュージックが多く、テンポ重視なのかメロディアスな曲はほとんどなかった。アルバムとかには入ってるのかもしれない。海外向けにはyoutubeなどにあがっているpvで拡散されているので、ダンスミュージックの方が人気が高いのかもしれない。動画だとダンスが映えるし、歌とダンスで二度おいしいみたいな。これは推測の域を出ないけど。

そしてダンスと歌がうまい。大トリのスーパージュニア以外は口パクじゃなかったと思う(アイドル産業に詳しいわけではないのであんまり自信ないけど)。知名度が低いグループはダンスの振りも激しいものが多く、大トリに近づくにつれて徐々に、いわゆるアイドルダンス風というか、ダンサー然としていないパフォーマンスが多かった。
後発のアイドルグループはクオリティで売ってくしかないのだろうか。

最後に、メンバーのうちの誰かひとりくらいは英語が話せるので、MCの反応がいい。これは日本の歌手にはない特色だった。

以上、インドネシアのkポップイベント参戦記でした。
途中でも書いたけど、ライブ中の撮影容認などに見る新興国向けショービジネスのビジネスモデルについて、jkt48もからめて次のエントリにまとめる予定。

「美の民主化」を押し進めた革命家たち

印象派で「近代」を読む 〜光のモネから、ゴッホの闇へ』の要約と、読んで思ったこと。ちなみにこの本を読むまでは知識ゼロなので、訂正などあれば是非お願いします。

 
Q:帯の絵の作者は誰でしょう。

 何々派の誰それがどんな絵を描いてるとか全然知らないけど、ちょっと気取ってデートで美術展に行ったことが数回ある。そんなぼくでも「印象派」という言葉は知っていて、勉強したらデートで女の子にちょっとくらい解説できるかな、と思って読み始めた。
 
 そんな軽い気持ちで読み始めたところ、細かいうんちく情報よりも、印象派の画家たちの生き方に引き込まれ、とても強いインスピレーションを受けた。教育課程で世界史をしっかり学習した人にとっては自明のことかもしれないが、印象派の画家は既存の権威に反逆した革命家だったということを初めて知ったのだ。
 何らかの活動に力を入れているが、周りから認められない。そんな憤りを感じる人は多いと思うが、あの有名な印象派の画家たちも最初は認められなかったのだ。そんな風に思うと、少し勇気がわいてくる。
 
 日本人は権威に弱く、無名の新しいものを認めない傾向がある。そんなことを感じていた時期があったけど、なんのことはない、どこの世界もいつの時代も権威主義がはびこっているのだ、ということがわかった。西欧世界の文化の中心フランスも例外ではなかったのだ。

印象派とは何か

 この本の導入部分はこうだ。

まず、印象派とは何か?「一八六〇年代からフランスにおこった絵画運動。特徴としては、主題より感覚、形態より印象を重視し、絵具」を混合しないことによる明るい色彩と、自在で魅力的なタッチ(絵筆の跡)を残して、光あふれる自然を賛美。マネに大きな影響を受けた若手たち ー モネ、ドガ、ルノワール、モリゾ、ピサロ ー を起点とし、セザンヌ、スーラ、ゴッホ、ゴーガンへと発展」これがだいたいの共通認識と言っていいでしょう。

 これは、非常に教科書通りでイメージが浮かびづらい。この本を読んだだけの薄っぺらい見識ではあるが、わかりやすくまとめると印象派の画家たちの功績はふたつあるといえる。「美の民主化」を押し進めたこと、そして「歴史の証人」として資料を残したこと。この二つの功績について書いてみる。

美の民主化

 印象派の台頭までは、美術とはごく一部の特級階級や、美術学校の教授やアカデミー会員のものだった。お金持ちが絵を発注し、購買するためそれは当然と言えば当然である。当時一人前の画家として認められるためには、年一度開催のサロン(フランス官展)で入選するしかない。そんな中、落選してばかりの若手画家がグループで出資をして市内に会場を借り、1874年に展覧、即売会を行った。この無名会第一回展は一ヶ月間で集客はわずか3500人(サロンは40万人)と惨敗するも、歴史的には大きな一歩だった。これは後に第一回印象派展として知られるようになる。この会には印象派の命名の元となったモネの『印象-日の出』などが発表された。しかし、評判は散々だった。

 でもリアルタイムでこれを見た、とりわけ伝統を重んじる人々にとっては、「こんなものは絵ではない」。
 まさに悪評さくさく。中でもルロワという評論家は新聞で、「この絵はいったい何を描いたのか」「描きかけの絵だってこれより完成度が高い」「さぞかしここにはたっぷり印象が入っているのだろう」と揶揄し、展覧会に出品した画家たちを「印象派」と読んだのです。つまり印象派とはーバロック(歪んだ真珠)と同じくー最初は嘲りだったわけです。

 美術学校の教授やアカデミー会員が既存の権威から認められないと日の目を浴びない。彼らの、アカデミーでの基準とはどのようなものか。それがわからないとここまで罵倒する理由が見えてこない。著者が『もしかすると眼の歓びより「勉強」の要素が強かったのかもしれません。』と書いている通り解釈すると、もともと絵画を含む美術は楽しむものではなく教養の一つだったのだと考えられる。神話や歴史について造詣の深い人々が、比喩表現を込めて表現をし、知識を総動員して読み取る。自分がどれだけ研鑽を積んでいるかを勝負し合う、というような楽しみかたが主流だったのではないか。そしてその楽しみ方を大衆に押し付けていた。
 そう考えると、彼らにとっては印象派の絵は受け入れがたいことがわかる。一切の解釈をする必要がなく、描く対象も神話のモチーフなど高尚なものではなくて市井の人々だ。それまで絵の楽しみ方を根本から破壊するものであったことは間違いなく、その立場から見れば確かに受け入れがたい。そんなアレルギー反応が権威からの酷評として現れたのだろう。
 
 絵画が限られた人々のみの間で楽しまれていた時代はそれでよかったのかもしれないが、民主化が進み、多くの人が絵画などの芸術に触れる余裕がでてくると、状況が変わってくる。印象派の絵を見て、「偉い先生たちはああいってるけど、おれはこっちの方が好きだなあ、、、」という人が増えていき、無視できない数になっていく。小難しいことはよくわからないけど、見ていて気持ちがいい。既存の権威からしたら絵の楽しみ方は「どれだけ高尚なモチーフを読み取れるか」だけれども大衆から見れば「見ていて良い気分になれるかどうか」が楽しみ方だ。そうなれば印象派の絵が評価を勝ち取っていくのは至極当然の帰結である。
 
 既存の権威が「わしらが美しいと言ったら美しい」という構造から「みんなが美しいと言ったら美しい」という構造になったのだ。この頃から、絵画はアカデミーやサロンの中だけで完結するものではなく、大衆に開かれたものになっていく。各々がそいれぞれの楽しみ方をもてるようになった。印象派の台頭とは、「美の民主化」であり、ポップス文化の幕開けに他ならなかったのだと言えるだろう。その時代の一歩先を行っていたのが、印象派の画家たちだった。

 この辺の時代背景を理解するには『Dr.コトー』などを書いた漫画家山田氏の『マッシュー時代より熱くー』を読むと理解が進みやすい。この漫画の設定は、サロンが幅を利かせているまさに印象派と同じ時代。主人公は無名の画家で、サロンには認められないが、徐々に支持者を増やしていく様子を描いている作品だ。
 Jコミで無料で読めるようにもなっているので是非。
 http://www.j-comi.jp/book/comic/4281
 ぼくは単行本を途中まで買ったけれど全11巻のうち8巻までしか手に入れられなかったので、Jコミのおかげで非常に助かった。

 余談ではあるが、この一連の歴史の流れから、非常に残念ではあるひとつの真理が読み取れる。それは、誰しもいったん権威の側に回ると、権威主義に染まってしまうこと。
 一時は反逆の革命家であった印象派の画家の一部は、権威の側に回ると、嵩にかかる態度にでてしまったようだ。印象派の名声が高まった理由のひとつに、新大陸アメリカで彼らの絵画が大いに売れたということがある。いわば逆輸入の形で海外で認められた事が、国内での評価を高めたのだ。(日本でも、海外で認められると手のひらを返したように評価が高まることがしばしばあるが、これは日本だけの現象ではないようだ。)
 ところが、新大陸アメリカの人々を無学な連中と決めつけ、軽んじた。アメリカに自作購入されたくないと公言までした画家もいたのだ。
 かつて自分たちが認められなくてつらい思いをしていたのを忘れてしまうのか、、、権威を持っても謙虚な部分は持っていたいよな、って権威になる予定ないから心配なかった。

歴史の証人とは

 印象派の画家たちは小難しい解釈から絵を解き放ち、感じるままに鑑賞されることを望んだ。自然の美しさを感じるままに描く、というのがおおまかな特徴であるため、描かれている対象が歴史的資料になりやすい。その時代の風俗や文化が克明に描かれているのである。
 
 1789年の革命以降、ナポレオン3世独裁や普仏戦争など、王政復古に戦争や内乱を経て民主化が急激に進んでいく時期は、印象派の黎明期と重なる。このような歴史を振り返る際に、印象派の絵画はとても重要な資料になる。印象派の画家たちは、かれらの時代、近代を描いた。をその意味では、彼らは歴史の証人であると言えるだろう。
 
 そして、彼らがどのような絵を描いて、どのような歴史を切り取ったのか。またこの動乱期にはどのような変化が起こったのか。それはぜひこの本を読んでいただければ、詳細に渡って説明してある。新書サイズではあるが、見開きをいっぱいにカラーで絵が掲載され、説明がされているページもたくさんあるので、予備知識がなくとも楽しめるようになっている(下記画像参照)。眼を歓ばせるだけでなく、様々な情報を読み取ることができるようになれば、絵画鑑賞はきっとより楽しくなるはずだ。

 ちなみに、帯に大きく印刷されている絵はクロード•モネの『散歩、日傘をさす女性』でした。